メキシコシティで流しのタクシーに手を挙げてはいけない理由

夜10時すぎ、ローマ地区のレストランを出ると、通りにはまだ人の気配が残っています。ホテルまでは車で10分ほど。ちょうど向こうから、ピンクと白に塗り分けられたタクシーが走ってくる。日本でも、ヨーロッパでもそうしてきたように、軽く手を挙げる。車はすっと歩道に寄って止まり、運転手は愛想よく行き先を聞いてくれます——。

メキシコシティで、この場面ほど「普通」に見えるものはありません。そして、日本の外務省、在メキシコ日本国大使館、米国務省が、そろって「やめてほしい」と書いている場面も、実はこれなのです。

赤信号で、後ろのドアが開く

在メキシコ日本国大使館の「安全の手引き」には、流しのタクシーで起きた被害として、こんな手口が載っています。赤信号で車が止まったとき、運転手と示し合わせた犯人が後部座席に乗り込んでくる。そのまま金品を奪われる、というものです(在メキシコ日本国大使館 安全情報)。

ここで大事なのは、車そのものは本物のタクシーでもかまわない、という点です。ナンバーも車体の色も正規のもので、運転手が犯人側についている。乗る前に「白タクかどうか」を見分けようとしても、見分けようがありません。米国務省も、犯罪者がタクシー運転手を装うことがあると注意しています(U.S. Department of State, Mexico Travel Advisory)。

日付が変わるのを、車の中で待たされる

奪われるのが財布の中身だけで終わらないことがあります。メキシコでは「短時間誘拐(特急誘拐)」と呼ばれる犯罪が起きていて、日本人が被害に遭う可能性もあると、外務省ははっきり書いています(外務省 海外安全ホームページ メキシコ安全対策基礎データ)。

手口はこうです。

つまり犯人にとって、乗客は「日付をまたいで2回使えるカード」でもあるわけです。米国務省も、犯罪者が被害者にデビットカードやクレジットカードで現金を引き出させる強盗が都市部でよく起きていると警告しています。

外務省は、狙われやすいのは目立つ格好をしている人や、行動がパターン化している人だとしています。同じ店に毎晩通い、同じ時間に通りでタクシーを拾う旅行者は、その条件に当てはまりやすいと言えます。

メキシコシティは「レベル1」。それでも流しだけは別扱い

ここで、少し冷静な話もしておきます。

外務省の危険情報で、メキシコシティは**レベル1(十分注意してください)**です(外務省 メキシコの危険情報)。レベル2以上の州がある中で、首都は「渡航を控えて」と言われている場所ではありません。美術館をめぐり、タコスの屋台に並び、夜のレストランを楽しむ旅行者は大勢います。短時間誘拐が年に何件、観光客にどれだけ起きているのかという数字も、公的な資料からは確認できませんでした。

それでも、日米どちらの公的機関も、移動手段の話になると同じ一点を名指しします。流しのタクシーには乗らない。街全体を怖がる必要はなくても、手を挙げてタクシーを止めるという一つの動作だけは、日本の感覚から切り離しておいたほうがいい。この街のリスクは、街中に均等に散らばっているのではなく、その一瞬に集まっているからです。

手を挙げる代わりに、呼ぶ

では、どう動けばいいのか。公的機関の案内をまとめると、選択肢は次の3つです。

ただし、配車アプリにすれば無条件で安全、というわけでもありません。大使館の手引きは、アプリの車でも過去に強盗などの被害が起きているとしたうえで、呼んだ車のナンバー、運転手の名前と顔を確かめ、相手が「誰を迎えに来たのか」を確認するよう求めています。乗る前に「お名前は?」と聞き、相手にこちらの名前を言わせる。この一手間が、乗り込んでくる「別の車」を防ぎます。

スマホの電池が切れた夜、人はまた手を挙げる

この対策には、ひとつ弱点があります。すべてがスマートフォン頼みだということです。

地図を開き、写真を撮り、翻訳アプリを使いながら一日歩き回ると、夜には電池がかなり減っています。そしてレストランを出たとき、画面が真っ暗なら、アプリで車を呼ぶことも、ホテルに電話することもできません。目の前の通りには、流しのタクシーが走っている。避けたかったはずの選択肢に、いちばん自然に戻ってしまう瞬間です。

だからメキシコシティでは、薄型のモバイルバッテリーも移動の安全装置の一つになります。夕食の前に少し充電しておくだけで、帰り道にアプリを開ける状態を保てます。

手を挙げる代わりに画面を見て、来た車のナンバーを確かめてから乗る。メキシコシティの夜は、それだけでずっと穏やかなものになります。

ヘッダー写真: Gzzz / CC BY-SA 4.0(Wikimedia Commons)